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「身体」

今更声高に主張することもないのだけれど、わたしは女だ。

けれど記憶が確かなら、わたしは二十歳くらいまで、それを自覚していなかった。
したくなかった、というほうが正確かもしれない。
もちろん、大人になるずっと前から、
躾けられた女性らしい所作振る舞いであるとか、自分の声の素養とか、
もろもろすべてがわたしを女だと定義づけていたし、
わたしは一度たりとも自分が男だと思ったことはなかった。
ただ、潜在顕在問わずを排除しようとしたことはあった。

主観的に他人と比べたとき、わたしは性に対する自覚に乏しかった。
(たぶん今も偏差値は45くらいだろう)
当時、なけなしの力を振り絞って描いた艶は(相変わらず)孤独だったし。
でも、わたしにはさしたる問題ではなかった。

今は内面と外見で釣り合いをとろうとしているけれど、
かつてはわたしのすべてが等しく中性的であることが理想だった。

それが、どうして変わったんだろう、と考えたとき、
「身体」の変化があったんだろうなと。
わたしの線が、女になってしまったからなんだろうな。
ということを、さっきまで考えていた。

長い時間をかけて、環境はわたしを細らせた。
※病的ではない。

少しずつ、腰や手首が「華奢な男性」のそれより細くなってしまったとき、
たとえ芝居といえど、
「わたしはどう足掻いても、あの逞しい生き物には成れないのだ」と。
なんとなく悟ってしまったんだと思う。

さらしで胸を潰しきれないとか、低い声が出ないとかじゃなく、
鏡に映っていたのは「細くて白くて弱い女性の身体」だったから。
もちろんわたしは女だから、それについて絶望したわけでもないし、
二度と演じることもないだろうから、男に成れないことに不満はなかった。
日焼け止めを塗ったり日傘をさしたりするのは相変わらず。
食べる量だって相変わらず。ただ、もうこれまでとは違うんだと。

それを受け入れたのは、いつかの夏だった。

たぶんそのころから、わたしの箪笥には暖色が増えたし、
持病の治療のために病院に通い始めたし、
何より「身体の線」を凄く意識するようになった。
傍から見たらそれはいい傾向だったのかもしれない。
わたしも自身をそう俯瞰しているところはある。

けれどあのころの(女らしさを無視した)安定感であるとか、
どうしたいのか自分でもわからない不可解さであるとかが
損なわれてしまったのも事実。

どっちが良かったかなんて考えるまでもなく、もうわたしは女だ。
自分でも知らず知らずの間に。わたしの線は女だった。

そういうおはなし。



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2012年08月03日 | Comments(0) | Trackback(0) | 雑記
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